2016年6月12日日曜日

かなるましづみ

[日本語の動詞活用形の起源 総目次]

万葉集の東国歌謡には、意味のよくわからない言葉も散見される。
そのうち、ヅ・ズが、ジだったら意味が通りそうなものがあるんだけど、、、という話。


カナルマシヅミ

  • 14/3361「足柄のをてもこのもにさすわなのカナルマシヅミ子ろ我れ紐解く」
  • 20/4430「荒し男のいをさ手挟み向ひ立ちカナルマシヅミ出でてと我が来る」

「か鳴る間沈み」として、「鳴りを潜めて」等の意と解釈するのが一般的なようだが、歌意としてあまり釈然とはしない。
ここは、「敵る-まし-み」(敵うべくもないので)の意味と取りたい。
つまり、中央語の「敵ふ」は、カヌ+継続フに由来すると仮定し、とすると、カヌ+継続リでもほぼ同じ意味とすることが出来るはず。中央語だと、kani-ari > kaneri になるところだが、東国語だと、kanari となる。それに打消可能の「ましじ」を接続させ、ミ語法として、「かなるましじみ」となったものとするのである。

全体的な歌意としては、
「足柄山のあちこちに仕掛けてある罠のように(あの手この手で仕掛けてくるあなたに)、敵うべくもないので、恋人の私は紐を解く」
「(防人の徴兵人の)強そうな男が矢を手にもって立ちはだかり、敵うべくもないので、(家を)出て私は(この防人の任地へと)来た」
となり、すっと歌意が通るように思われるのである。

カヌマヅク・カノマヅク

  • 14/3409「伊香保ろに天雲い継ぎカヌマヅク人とオタハフいざ寝シメトラ」
  • 14/3518「家(いは)の上にい懸かる雲のカノマヅク人そオタハフいざ寝シメトラ」

意味のよくわからない言葉のオンパレードだが、一般的には「雲が空に出て天気が悪くなりそうで他の人は騒いでいるから、その隙に共寝しよう」みたいな意味に取っているようである。

まず、「かぬ/のまづく」だが、これは「短期間(かぬ/のま)く」という意味と考えたい。
「束の間」と同義の「かぬま」「かのま」という語があったと考え(此の間?、毛(か)の間?、離(か)らぬ間?)、「時じく」が「時ならず」の意味となるように、「短期間ならず」という意味で「かぬまじく」としていると考えるのである。

  • 14/3363「我が背子を大和へ遣りて待つ時(しだ)す足柄山の杉の木の間か」

の、「木の間(コノマ)」もカヌマと同語であると考えたい。つまり、「松、杉、木の間(このま)」といった言葉が、「待つ、過ぎ、短期間(コノマ)」と掛けてある歌で、「夫を待つ時間は、松ならず、杉の木の間、つまり、短期間のうちに過ぎるだろうか」という歌。

  • (追記) ふと思いましたが、「かぬま」の「か」は、「二日(ふつか)三日(みか)」の「か」、「日長(けなが)し」の「け」に関係して、「日数で数えるような比較的短い期間」ということなのかも。

しかし、この歌、縁語・掛詞バリバリで、万葉離れしているというか、東国語でなければ、古今集にでも載せたいような歌ですね。。。

次に、「おたはふ」。これは、「音(オタ)ふ」+継続フとして、「声を掛け続けている」、の意味としたい、「音(オタ)ふ」は、中央語の「響(オト)なふ」「訪(オト)なふ」と同類の語と考える。

最後に「いざ寝シメトラ」。
これは、「いざ寝初(し)めてろ」、つまり、「いざ寝初めてよ」、「さあ寝初めてしまえ!」の意味としたい。
完了ツの命令形は、東国語ではテヨではなくテロになる。
以前書いたように
、東国語で、エ段が連続するとき、片方がオ段になるという現象が見られるので、「ネシメテロ」の、「メテ」が「メト」になっていると思われる。
最後の「ロ」が「ラ」になっているのは、ちょっと説明がつかないけれども、乙類オ段とア段の交代は、東国語ならずとも一般的にある事象ではある。
「メテロ」がエ段の連続を避け、「メトロ」となって、今度は、本来はエ段テであるところの「ト」と、本来的にオ段である「ロ」との間の音の違いを強調するため、ロがア段ラになっているのかも。

以上、トータルとしての歌意は、
「雲が次々と切れ目なくかかり続けるように、短期間ならずずっと、あの人は求愛し続けている。さあもう一緒になってしまえ!」と、奥手な女に対して、周りの女が囃している歌だととる。

コテタズク

  • 14/3553「安治可麻(あぢかま)の可家(かけ)の港に入る潮のコテタズクもが入りて寝まくも」

「言痛(コチタ)からず」の意味で、「言痛(コテタ)く」としているものと考える。
形容詞「言痛し」の打消形を「言痛じ」とだと考えるのは荒唐無稽なようにも思えるけれども、実のところ、東国語における形容詞の打消形は実例がなく、どうだったかはわからないのである。とすれば、「時じ」「鹿(しし)じ」「男じ」等の「じ」の例に倣った形式であったとしても格別奇妙ではないのではないか。
「時じ」等は、形容詞の打消形として「言痛くあらず」の分析的な形式が一般化する前の、肯定形容詞語尾「し」に対する打消形容詞語尾「じ」が残存した形式だと考える。

全体的な歌意としては、
「安治可麻(あぢかま)の可家(かけ)の港に入ってくる潮の(じわじわと変化するので人目にはそれと目に着きづらい)ように、人の噂にならずありたいものだ。彼女の家に入って共寝することも」

ヲグザズケヲ

14/3450「乎久佐(ヲクサ)男と乎具佐(ヲグサ)ズケ男と潮舟の並べて見れば乎具佐勝ちまり」

一般的には「小草を付けた男」のように解釈しているようである。「小草(ヲクサ。地名)の男と、小草(ヲグサ。草の種類)を付けた男とが潮舟に乗っていて、並べて見比べれば、小草(ヲグサ)(を付けた男)の方が勝っているようだ」という意味としている。ただ、「付けている男」だったら、「ズケ」ではなく、「ヅケ」になるべきだろうが、そこは、東国語の訛りと解しているのであろう。

全体的にはそれと大差ない解釈なのだが、「小草き男」つまり、「小草(地名)ならざる男」の意味としたい。
東国語では、形容詞の連体形は、「キ」ではなく「ケ」になるため、「じき」ではなく「ずけ」になっている。
「小草出身の男と、小草出身じゃない男とが、潮舟に乗っていて、並べて見比べれば、小草の男が勝っているようだ」の意味としたい。

ちなみに「勝ちまり」は、「勝つめり」(見るからに勝っているようだ)の意と一般に解釈されており、それに同意する。 中央語では、「見有り (mi-ari) > めり (meri)」となるところを mari となっているのだが、中央語では中古にならないと用例が検出されない「めり」が上代に用いられている唯一の例である。ただし、なぜか、終止形接続でなく、連用形接続になっているが。

 

 あと、これは、あまり自信のない例なのだが、

サヱサヱシヅミ

  • 14/3481「あり衣のさゑさゑしづみ家の妹に物言はず来にて思ひ苦しも」

「衣服が(遠征中で洗濯できずに)ゾワゾワするのを静めると、言葉を交わさず出てきた妻のことを思い出し、苦しい」といった意味に解釈されている。
それでもいいのだが、「ゾワゾワするのを静めてから、妻のことを思い出す」というのに若干の違和感を感じなくもない。
「さゑさゑ繁(し)み」、「ゾワゾワするのが頻繁なので」と解釈した方がよいのかも、という気もする。

 


以上、「ヅ」「ズ」が、「ジ」だったら、、、という例である。
東国の、「ヅ」「ズ」と、「ジ」との混同、というと、ズーズー弁的な四つ仮名の混同を思い出してしまうのだが、それとはちょっと時期の異なる話のように思う。

上記の例にも見られるが、20/4430「出でてと我が来る」、14/3409「人と音(おた)はふ」のように、東国語では係助詞「そ」が「と」になることがある。サ行とタ行の交替があるのであれば、ザ行とダ行の交替があってもよいだろう。
また、14/3432で、「梶の木」を、「かづのき」としており、ヂ/ヅの交替例もあるようだ。(カヅは被覆形かもしれないが…)

といったことで、「ヅ」「ズ」を、「ジ」として解釈することもアリなのでは、、、と妄想している。

形容詞終止形は、係助詞「そ」の親戚の間投助詞「し」に由来すると考え、その東国語バージョンは係助詞「そ」が「と」だったように、「ち」だっただろうと。そしてその打消形も「ぢ」。

ただし、「ち」 [ti] は、東国語では、口蓋化して、「し」 [tʃi] となる (※) ため、結果的に中央語と同型に帰したのに対し、打消形の「ぢ」は「づ」に形を変え、残存した(というか、中央語の「じ」の用法がかなり限定されているのに対し、より広く使われている)、
とも考えられるんじゃなかろうかと。。。

どうですかね。。。

(※) 20/4383「津の国の海の渚に船装ひ立し出も時に母が目もがも」のように、「立ち出む」が「立し出も」になる。

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